ささのはな たけのはな 2018/8/30

8月30日

ささのはな たけのはな

いま北海道白老の飛生地区では、あたり一面、笹が枯れて真っ白な風景になっています。
飛生(トピ・ウ)は、アイヌ語で 「竹・多い」という意味の言葉で、もともとこの地は、笹が多い土地であるのが分かります。

笹は見て分かる通り、竹の仲間の植物です。
土の下、根でどんどん広がります。笹だらけの林や森を見ることも多いでしょう。
あっという間に葉っぱが広がって、他のちいさな植物には陽が当たらなくるので、余計にあの緑の笹だらけの風景になります。

そんな絶えることのない緑の笹の風景が、真っ白に変わる時があります。
笹の花が咲くと、辺り一面、真っ白に枯れてしまうのです。

笹や竹の花が咲くのは60年とも120年とも言われています。
でも、確かな開花時期は分かっていないとも言われています。

日本では、笹の花、竹の花が咲くのを『不吉』『飢饉が起こる』などということもありました。
でも、なぜ60年,120年という数が言われるかというと、中国にも笹や竹はあり、縁起のいいものとされていて、縁起の良い数である60,120という数字が当てられたものではないかと言われています。

また、幌別のアイヌの言葉では笹の花(実)を『カムヤマム kamuy-amam』カムイのアマムつまり『神の穀物』と呼んでさえいました。
農耕民族の和人とは違う暮らし、狩猟・採取で暮らしをしていたアイヌにとって、大事な食料でもあったことが分かります。
呼び名があるということは、採取の暮らしを営んでいたアイヌの人々は、珍しいはずのこの花を、山の中、森の中で、見つけることができ、そして大切にしていたということではないでしょうか。

気にもしなかった笹の林に、花を見つけ、気づけば翌年そこは真っ白に枯れた笹の林になり、種を落とした笹の花からまた新しい命がつながって、そして今まで笹が遮っていた陽の光が土に当たり、そこで眠っていた他の植物の種が芽を出して、以前とはすこし違う風景が生まれます。

幻想の物語にも必ず何か現実の暮らしとのつながりがあるのではないかと私は思っています。
誰もが知っている『かぐや姫』の竹取物語の翁が竹林から見つけた『かぐや姫』というのは、竹の花だったのではないかと、笹の花とその風景に出会ったとき、私は思いました。
長い年月、決して変わらなかったその風景の中に花が咲き、気づけば一面枯れ果てて、でも、もう少しの年月そこで暮らしれば、新しい植物がたくさん芽を出して、新たな緑の風景が広がります。
花が咲いたその時は、急に真っ白になるその風景に驚き慄いてその花が『不吉の象徴』と思ったとしても、少しの年月がたって振り返れば、新たな緑の風景の始まりは、その花があってこそだったと思うはずです。
その花を度々みることは無かったでしょうから、『記憶の中にしかない花』になったかも知れません。
森ひとつ、山ひとつを白くさせてしまった『記憶の中の花』が『かぐや姫』に思えてもおかしくないのではないだろうかと、私は思うのです。